説明文 |
  造園家。東京麻布の戸沢(旧新庄藩主)邸内に生まれる。折下済の長男。麻布中学校、第一高等学校、東京帝国大学農科大学農学部卒業。宮内省内苑寮園芸係技手となり、新宿御苑で洋蘭の品種改良や菊、果樹蔬菜、庭園芸を研究、福羽いちごの新品種等を作った。神宮外苑青山の銀杏並木は、播種し育苗から手がけて植えたものである。
  大正元年奈良女子高等師範学校教授となり、在任中に橿原神宮の林苑整備を委嘱され完成した。日本神社林苑事業の、また日本造園事業の最初にして最大の事業といわれた。続いて明治神宮造営局林苑主任技師となり全国各地から献納された立木で林苑を造成し、現在の明治神宮の森を完成させた。
  欧米各国の都市計画調査に赴き、関東大震災後は帝都復興院技師兼明治神宮造営技師として、翌年は復興局建築部公園課長となって、東京・横浜の公園の新設、街路樹植栽等を総括した。昭和2年には新庄城址の心字池等の修景を依頼され、昭和5年に完成した。京都市、台北・台中・大連・長春・奉天等の都市計画、都市公園の計画に尽力した。
  戦後は国立公園、自然公園、日本道路公団等の委員として日光太郎杉の保護等、自然美の保護に努力した。山形県綜合開発審議会専門委員でもあった。墓は鶴見市総持寺にある。
  (「かつろく風土記」等による)
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