説明文 |
  物理学者・理学博士。東村山郡金井村大字志戸田生まれ。農業日下部定治の三男。幼年時代に3年間、同村の天然山乾徳寺に預けられた。山形県尋常中学校・第二高等学校に学び、進んで東京帝国大学理科大学に入学、明治33年7月物理学科を卒業し、さらに同大学院に入り、39年7月理学博士を授与される。この間海軍技師を1年ほど務めた。40年仙台に東北帝国大学理科大学が開設されるに当り、予めその教授の一員として選ばれ、本多光太郎・藤原松三郎・真島利行らとともに、物理学研究のため英・仏・独の各国に留学。44年1月帰朝と同時に教授に就任、その創立にあずかり、物理学第二講座および地震学講座を担任した。
  大正3年、岩石の弾性に関する研究「岩石の力学的研究」により帝国学士院賞を受賞。ついで南洋、支那及び欧米各国に出張研究した。大正11年8月、同大学に地球物理学教室が新設されるとその講座を担任、12年6月、理学部長に就任、同年12月には学術研究会議会員になった。
  地球物理学の権威としてその名をなしたばかりでなく、その深遠な学理を象牙の塔から民衆に開放することにつとめ、酒脱した諷刺の中に平易に解説してあますところなく、特に世に伝わる俗説迷信を珍妙な論理で打ち壊そうとしたユニークな「信仰物理学」の提唱者として有名である。前代未開の珍書、稀代の快著と評された「二人行脚」では、「本書の功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と読者皆共に信仰物理学を修め、曠却の迷信は当下に消滅して真空の妙智現前するあらば、著者の目的は達せられるのである」と述べており、徹底した科学の知識を土台にして、迷信と信仰の秘密を学理的に解剖し、学術界に新たに信仰物理学の一分野を開拓建設しようと意図していたことを知ることができる。そして東北帝大に「信仰物理学」の講座を開設しようとした矢先の大正13年7月1日、バラのトゲによる傷から丹毒にかかり急逝した。
  没後、遺稿を編んで出版された「異国行脚」は「諷刺と自然科学の交響楽」と評された。(「山形縣教育史・人物篇」等による)
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